1950年前後?
1962年
1984年
2004年
自分がギターを始めた11歳の時、
最初に教えてくれたのが父親だった。
昭和初期のギター・ヒーロー古賀政男の
「酒は泪か溜息か」と「影を慕いて」
2曲共、key=Dmの悲しい歌。”ど演歌”である。
レクチャーに厳しさは無く、一通り手順を教えるだけで、
いつも晩酌しながら「上手い!うまい!」と言ってた。
それを真に受けたお調子ノリの自分は益々ギターに
ノメリ込んで行くんですね。
サラリーマン人生の親父の生き方と
自分とは全く違うと思っていたのは若い頃の私。
しかし歳を取るにつれ、
いろいろと共通点を発見してしまう。
父が自分の歳だった頃、どうだったかってヤツね。
親父が亡くなり四十九日も済んだこの2ヶ月足らずで、
自分が知らなかった親父が見えてきた。
親父が昔サックスを吹いていたのは知っていたが
その演奏を聴いたことは無い。
どういった活動をしていたのかも知らなかった。
以前直接訊ねたことがある。
自分 「楽団ではどんな曲を演ってたん?」
父 「軽音楽や演歌やな」
詳しいジャンルや曲名を問いただそうとしたが
何故か話がかみ合わなくなりそれっきりになった。
法要の時に親父の弟に尋ねてみた。
自分 「叔父さん、おとうさんはサックスを吹いてたんやね?」
叔父 「サックスもやってたけどメインはトロンボーンや。
ものすごいよう練習してたわ。
楽団の練習から帰ったら毎日家でギター弾いとったなぁ。」
自分 「それでギター弾けたんですね。」
叔父 「田舎では楽団を頑張とったけど大阪に帰って就職してから
は会社のクラブでやっとったわ」
後に母親に聞いたところでは
大阪生まれの親父は家族ごと20歳くらいまで香川県に疎開していて
そこでバンド活動(ビッグバンド)していたらしい。
ダンスホールの他、街や学校のイベント、祭りなどで演奏していた。
1950年当時で言う”軽音楽”とはつまりスタンダードジャズ。
親父のいう”演歌”とは当時の歌謡曲のこと。
昭和25年頃の歌謡曲のアレンジってジャズっぽい。
大阪に帰ってからも父は音楽の道に進もうと思う。
京都のある有名な楽団に紹介してもらう為に
知り合いを訪ねた所、その人は不在だった。
丁度その時に住友電工の募集があり、父はそれを選んだ。
とまぁ、こんな感じです。
音楽の道をあきらめてサラリーマンになるって
悩んだのかな?辛かったのかな?
と思うのは勝手な思い込みやね。
「オッ!募集してるやん。超ラッキー!」
くらいに思っていたんでしょうね。たぶん。
自分の時とは状況が違い過ぎる。
当然でしょう。
でも、こうやって写真を並べると
時代や状況の違いを越えて
同じ思いの自分と親父が見えてきて泣けてくる。
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